大人の寺子屋(第8回、12月1日)

12月1日、第8回大人の寺子屋を行いました!

今回で、『信長公記』は最終回です。


はじめに、かわら版について事務局長の永盛さんが、

本文の内容について主幹である住職が説明しました。


信長は、幸若・梅若に能を舞わせて徳川家康らに見物させ、

また織田信澄・丹羽長秀に命じて、家康と穴山梅雪を大坂で接待させました。

その頃、中国の毛利攻めをしていた羽柴秀吉から援軍の要請があり、

信長自ら出陣するために上洛します。

明智光秀は、中国に向けて出陣する命令を受けていましたが、

途中の愛宕神社に参拝して連歌の会を開き、

「ときは今 雨が下知る 五月かな」

と詠み、謀反の決意をしたものと推察されます。

6月1日夜、軍勢一万三千を京都に向かわせ、本能寺を包囲します。

6月2日早朝、明智軍は本能寺を攻め、信長は抵抗しますが、

敵に最期姿を見せてはならぬと、奥の納戸で切腹。享年49。

織田信忠は、京都・妙覚寺に居ましたが、謀反を知り、

二条の新御所に移って防戦しますが、明智軍に攻められて自害。


蒲生賢秀・氏郷父子は、安土城の留守役を担いましたが、

謀反を知り、婦人や子どもたちを日野城へ退去させ、

安土城の金銀はそのまま置いて逃げました。

その後、安土城は原因不明の火災で焼け落ちました。

徳川家康は、信長父子の自害を知り、堺から退去。

伊賀越えを行いますが、途中で一揆勢に遭遇、

何とか危機を乗り越えて、6月5日に三河へ帰国します。

穴山梅雪は、逃げる途中で討ち死に。


『信長公記』の記載はここまでです。

その後、明智光秀は細川藤孝や筒井順慶らに味方に付くよう

要請しますが断られ、軍勢を十分に集められない状況でした。

そこに、毛利氏と和睦して中国大返しをした羽柴秀吉が

織田信孝らを加えた大軍で攻め、山崎の戦いで勝利。

清洲会議で、織田家の跡継ぎ問題を主導し、

翌年、柴田勝家を賤ケ岳の戦いで破り、天下取りへ進みます。

徳川家康は、甲斐・信濃をめぐり北条氏政、上杉景勝と争い(天正壬午の変)、

小牧長久手の戦いで秀吉と和睦。

秀吉の死後は、関ヶ原の戦いを経て、徳川幕府を開きます。


織田信長は、戦国時代を終わらせ、人々が交流し、既得権をはく奪し、

比較的自由な社会を目指して天下統一を進めていましたが、

本能寺の変によって夢が破れてしまいました。

再び戦乱の世に戻ってしまう危機でしたが、

秀吉と家康が天下を治めてくれました。

「織田がつき羽柴がこねし天下餅すわりしままに食うは徳川」

と後の世で読まれますが、

この三傑がいたからこそ、百年以上続いた戦国時代が終わったと言えます。


今年度の大人の寺子屋は終了となります。

また来年4月に、新たな本を読んでいきたいと思います♬


本増寺

岩手県大船渡市にある日蓮宗大船山本増寺のホームページです。 大船渡市の本増寺、住田町の本住寺、奥州市の蓮久寺、仙台市の本増寺別院の情報をUPしていきます。

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