大人の寺子屋(第7回、12月3日)
12月3日、第7回大人の寺子屋が行われました!
今年最後の開催となります。
『太平記』巻第三十九~四十(最終巻)を読みました。
今回の概要は、
大内弘世、山名時氏親子ら南朝に味方していた諸大名が、利益目的で北朝に帰参。
苦林野合戦(武蔵国)で、足利基氏が芳賀禅可を討ち破りました。
基氏は、捕らえた子・芳賀八郎の潔い態度に感服し、解き放ちます。
斯波道朝(高経)は栄華を誇るが、佐々木道誉らの讒言により没落、越前国に逃亡。
光厳法皇(北朝の初代天皇)は、出家して摂津・高野山・吉野をめぐり、
南朝の後村上天皇と対面。貞治三年(1364年)52歳で崩御。
斯波道朝に押領されていた越前国川口荘が、興福寺に返還。
道朝は病死、子・義将は将軍に罪を許され上京。☞将軍義満の時、管領に就任。
高麗国と太元国の使節が来日し、倭寇の取り締まりを要請するが、幕府の返事は「NO」
☞将軍義満の時、倭寇を取り締まり、日明(勘合)貿易を行います。
蒙古襲来(文永・弘安の役)の時、鉄砲(てつはう)の威力を振り返ります。
後光厳天皇は、不吉な出来事が起こるとされる「中殿の御会」を強行に開催したため、
天竜寺の未完の大伽藍が焼失。
清涼殿での最勝講の最中、興福寺・東大寺(奈良)と延暦寺(京都)の僧とが喧嘩。
弟の足利基氏(鎌倉、28歳)は4月に、兄の義詮(将軍、38歳)は12月に病死。
細川頼之は、12歳の新将軍・義満の執事(管領)となり、平和な時代が到来。
※ただ、この時の平和は一時的で、天下泰平までにはさらに20年以上かかります。
☞1392年、将軍義満の時、南北朝合一によって南北朝騒乱は終了。
『太平記』をまとめると、
作者は不明だが、小島法師(児島高徳か?)が重要なパートを担っていたと思われます。
公家、武士、庶民ら広範囲な階層の関与(情報提供)による国民の共同作業の書物。
政治の根本を「君主は徳、臣下は仁をもって民を育むこと」とする、
徳と儒学の五常(仁、義、礼、智、信)を繰り返し記述。
下剋上(讒と運)の時代に、為政者を励ますため因果(善因善果、悪因悪果)を示す。
『太平記』は、先輩格の『平家物語』よりはるかに血生臭い、戦場の現実を伝えた戦乱の
記録(軍記物)で、中国の古代説話、日本の王朝物語風の説話も少なくない。
全巻読破をしてみると、書名に「太平」を冠したのは平和への希求が込められています。
私たちは、欲を出して貪り、些細なことに怒り、理解しようとせずに愚かになり、
人と争いごとを起こしたり、自分を卑下したりして生活を狂わせてしまいがちになります。
山あり谷ありの人生を平穏な心で生活するには、先人たちの教訓から学ぶことです。
来年から『信長公記』を読みます。
歴史を楽しみながら学びましょう!!
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